隣の芝生は燃えているか

記憶の吐き溜め

流石に歯は磨きました

基本的にどんなに落ちてても、ある日突然ふっと軽くなって適当に過ごせるようになるのだけど、

どうも今回のこれは長引いていて、とても疲れるので無理やりハッピーなことを考えようと思う。

 

曰く趣味とは、「明日もこれをやるために生きていたい」と思えるようなことだとか。

それで言うなら、私の趣味は専ら旦那だ。

一般的な人よりも体温が高いので、夏はジレンマだけど冬は重宝する

体臭が嫌じゃないどころかむしろ好きで、長く留守にする際には何日が来た肌着を製造、確保している

基本的にかわいい。これは好きだから可愛い論に相当すると思う

あとはときどきすっと通じること。言わなきゃわからないというのが世の常人の常だと思っているけれど、時々ほんとうにわかることがある

それは今食べたいものとか、考えていることとか、行きたいところとか。

総じてたいしたものではないけれど、そんなときは軽薄に運命やんけと思う

私が一方的に友人に対してそう思うことはあったけれど、お互いがお互いの考えていることがわかるとのたまうのはいろんな意味でヤバいと思う

それでも、そういうものを今は信じている

 

すっかり中年のようにたるんだ腹も

意外と色素の薄い目も

あまり生えてこないヒゲも

昔からここだけは変わらない、程よく骨ばった長い指も

できることならずっと

 

それらが例え目の前になくとも、無情にも時は流れるわけで

生活からそこがすぽっと抜けたとき、私に残っているのはルーティンだけだ

朝起きてご飯を食べて歯を磨いて服を着替えて会社に行ってうまく笑えなくてお昼を食べて気が散って冷房がききすぎていて頑張ってますよの残業を1時間して帰って化粧を落として洗い物をしてご飯を食べてシャワーを浴びて漫画を読んで歯を磨いて頭をかわかして寝る

その繰り返し×5

こうして羅列するといかに、暮らし以外の部分が残念な仕上がりかがわかる

社会を楽しめるようになれないなら、もう輪に入るのをやめたい、と思う

それこそ旦那が許さないけれど

 

それは彼のやさしさで

それこそが本当のやさしさだということも

頭のしっかりしたところではわかってる

それでも逃げてしまいたいと思うのは

やさしさなんてクソくらえと思うのは

よろしくないのだろうな、なんかの具合が

 

空いてた隙間にすこんとピースがはまるように

嘘のリズムをうまく鳴らせるようになるには

まだかかるのだろうか

 

静まり返った部屋でジャンジャンとシンバルを打つ猿の人形が浮かんだ。

 

 

ハッピーから大いに外れた

ちなみにハッピーと打とうとして、2回もHappyと変換してしまった。

アルファベットになった途端、急に善良で薄っぺらになる

明日から、名前もメモもすべてローマ字表記にしてやろうか

そうしたら、少しは

 

 

最近のしあわせは、風呂上がりのカルピスと

帰り道に他人の生活を垣間見る時

自分じゃない誰かの暮らしを妄想するのは羨ましくて苦しくてそれでも楽しい

 

 

たまには、歯も磨かずに髪もかわかさずに寝て

みようか

手詰まりの日々に変拍子

乳酸菌が守ってくれるはず

 

「なんて綺麗な涙を流すんだろうね」

というのは、小学生の頃に保健室で聞いた言葉だ。

保健室に入り浸っていた3.4年生の私は、その日も何時間目かの授業をサボってそこにいた。

たしか私が先客で、ベッドに寝ていた気がする。

目を覚ましたら、レールカーテンの向こう側には同級生のお姉さんがいて(何度か遊びに行ったことがあったので面識はあった)

漏れ聞こえてくる話から察するに、家庭の事情か何かでイヤになってしまったらしい。

興味津々で聞き耳を立てていた私の耳にぶっ刺さったのが、保健の先生が放ったあの言葉だ。

何を言ってるんだこの人は。

さっきまであの子を慰めてなかったか?

ていうか綺麗な涙ってなんだよ。

今まで私の中で再生されていた3-B組的な学園モノのワンシーンが、急にバグってメロドラマに切り替わってしまったような、そんな感じ。

とりあえず、綺麗な涙とやらを拝むためにそっとカーテンの隙間から彼女を見た。

確かに、ぐずぐずに汚く滴る私の涙とは違って、静かにつうっと流れる彼女の涙は美しかった、かもしれない。

だけどあくまでそれは情景としてだ。

 

当時は大好きだった保健の先生だけど、

今思い返してみると居心地が悪いというか

飲み下せない異物に心がざらつく。

 

彼女の涙は、彼女以外誰のものでもない。

綺麗だと、美しいと、そんなことを言われたいがために泣いている人なんて、きっといないはずだ。(武器の方の涙を除いて)

その時の悔しさや悲しみは彼女だけのもので、決して他人が勝手に物語として消化していいものではない。

なぜ、人の涙を通して自身の感受性や過去やポリシーみたいなものをひけらかすのか。

それはあなたの話で、あなたの気持ちだ。

誰かの心を借りて語られるべきではないものだ。

「飾りじゃないのよ涙は」

 

寄り添うようにして相手を取り込むことは、ほんとうに怖い。

そこに悪気が一片もないから。

同じような気持ちを高校生の時にも味わった。

 

戦争に関するドキュメンタリー映画を体育館で学年揃ってみせられたことがある(そもそもこの催し自体がどうかしてると思う)

教室に戻るためにのろのろとスリッパを履いていた時、一緒になった友人がいつもとなんら変わらぬ調子で言った。

「こういう時泣いてるの、可愛いなあ」

 

ほんとうに怖かった。

何が、と言われても上手く言えないが、認識のずれというか、食い違いがまったく機能していなくて

「彼女にはそれがそのように見えている」ということがとにかく怖かった。

たぶん「自分の気持ちに正直に泣けるのっていじらしくてor素直で可愛いよね」的なニュアンスだったのかもしれないが、

あまりにドン引きしてしまった私はその日以来、その子の目を見て話せなかった。

漫画に描き起こそうと思ったレベルで衝撃的だったし、ある意味ではトラウマに近いかもしれない。

 

 

とにかく、

何が言いたかったかといえば、涙に勝手に期待をしたり意味を込めたり、決めつけたりするのは

その出どころたるひとりの人間に失礼だと思うし(重ねていうが、武器としての使用を除く)

なんか良いことひとつもないと思うからやめようや、ということです。

 

ちなみに私の場合、涙の出処は大半の場合が悔しさか絶望です。

気持ちが終わってくると何見てても泣きます。

最近はガルパンのOPで急に涙腺がゆるみ喉の奥が熱くなりました。

パ…パンツァーフォー!

 

 

 

賞味期限が守れない

手足の震えがとまらない。

 

私の文章は綺麗にしまらない。

仕事なので、これではまずい と思う。

どうにも、組み立てた骨子がそもそも噛み合っていないらしい。

人に頼りたくないので間違ったまま遮二無二もがいて、最終的にどんづまる。

これが続くと、流石に泣きそうになる。

女の涙を勝手にカワイソウだと思っている人の前では、絶対に泣きたくない。

噛み潰してたら喉の奥がぎゅーーっと痛くなった。

 

心がいつまでも子どもなので、

思い通りにいかないことは投げ出したくなるし、

そもそも飽きっぽいので、同じ文章を何度も何度も書き直すのはとてつもなくしんどい。

1文字消すことにMPが減る。

いつか大人になれるだろうか。

 

雨よりも風が酷い帰り道

くるぶしが擦り切れて痛い。

踵がいびつにすり減ったパンプスは、毎回靴擦れをするから捨てようと思うのに捨てられない。

靴底が剥けたら捨てると思う。

 

最近、家までの道のりを眼鏡を外して帰るのが好き。

狭い道幅ですれ違う車のスピードにいらいらしたり、

高校生とすれ違うたびに視線を泳がせたりしなくていいので楽だ。

(すれ違うモノを気にしすぎ)

あと、ライトの明かりがすべて花火に見える。

こればっかりは目が悪くてよかったと思う。

テールランプも居酒屋の看板も、

全部がまるく弾けて見える。

いっそずっと裸眼でいてやろうかな。

 

旦那が買っていたアボカドが、びんの口の上ですっかり熟していた。

本来は一輪挿しの花器だけど、

突如彼に去来したアボカドブームにより

アボカドスタンドを兼任することになった。

漠然と野菜が足りてない気がしたので

いたんでいる部分をとりのぞいて

乱切りにしたねっとりとした緑を

玉ねぎと豚肉と醤油とバターでパスタに和えた。

アボカドっていたむとピンクになるんだ。

バターの賞味期限が17.5.13だったので、

ちょっと多めに使って残りは捨てた。

よくぞ長生きした。

旦那がいたらガチギレされそうだが

彼は今出張先で発熱腹痛に魘されている。

フィリピンは2年前に死んだバターよりも強し。

 

書くことで行き詰まった憂さを

書くことで発散しようとしている。

楽しくないことなんてしたくないのに、

今投げたらお前は一生逃げっぱなしだぞと

震える手足が言っている。

 

でもあたしは子どもだから、きっと寝て起きたらまた違うことに癇癪をおこすんだ。